2011.06.06

いつまでも人生にワクワクし続けてくれ!

慶應義塾大学理工学部 / 植原正太郎

学生・慶應・ブラインドサッカー植原正太郎

慶應義塾大学理工学部 植原正太郎

 今回取材をさせて頂いたのは、日本ブラインドサッカー協会でインターンをされている、
慶應義塾大学の植原正太郎さんです。
インターンの活動で「日本代表と一緒にイングランドに海外出張してきました!(笑)」

と笑顔で語る植原さん。
そんな彼が目指す「非営利団体ソーシャルメディア活用支援」とは?

 

「せっかくの1年間だからいろいろやってみよう」

幼少期のお話を教えて下さい

 出身は仙台です。でも仙台には3歳までしかいませんでした。そこから小学1年生まで青森に、小学2年生は札幌、小学3年生は仙台、小学4、5、6年生は広島、って感じで小学校のうちでなんと4回転校しました。多感な時期に転校とか、あやうくグレるところでしたよ。(笑)

転校が多かったんですね!やはり最初は緊張しましたか?

 何が一番嫌だって、漫画とか映画の影響で、みんなの思い描く転校生のイメージは“ヒーロー”なんです。
そういうステレオタイプの考え方が小学生全員に埋め込まれているんですよ!(笑)だから、「転校してきました」ってはじめて教室に入った時の、教室に充満する期待感は本当にプレッシャーに感じて、辛かったです。

中学、高校時代はどのような活動をされていたのですか?

 中高一貫校に入学したので、もう転校はなくなりました。部活はずっと野球部に所属し、高校野球での最後の1年間)は主将を任されました。主将になったはいいものの、自分の野球の上達は中学校で止まってしまい、全然伸びないどころか、ヘボくなる一方でした。(笑) 成長が伸び悩んでしまった原因はメンタルな部分が一番大きかったと思います。
「あれやらなきゃ、これやらなきゃ」って考えすぎて、体が動かなくなる症候群でした。今思えば、もっと伸び伸びやれば良かったなって思います。

慶応義塾大学理工学部に入学された経緯をお聞かせ下さい

 部活をやっていた頃は、「勉強は二の次!」って感じだったんですけど、3年の夏に野球部を引退してから、勉強に打ち込んだら案外勉強が楽しかったんです。それなりに勉強はしたつもりでしたけど、慶応大学は模試判定Eだったんです。
 第一志望は早稲田大学で、模試判定Cだったので、ギリギリ行けるかなって感じでしたね。慶応は「頑張ったところで受かる訳ないし!」と思って、リラックスしながら解けるところだけ解きました。逆に早稲田は、緊張のあまりズタボロ。結局、第一志望の早稲田に落ちて、慶応に“マグレ”合格しました。(笑)自分でも驚きましたね。

“マグレ”で慶応に合格って凄いですね!インターンを始めるまでの大学生活はどうでしたか?

 普通の大学生活でしたよ。 サークル活動楽しんで、飲み会楽しんで、バイトも楽しんで、みたいな。 このまま、3年生になって就職活動をしていくレールが見えていたのですが、あることをきっかけに留年してしまいました。

留年された理由をお聞きしても宜しいでしょうか・・・?

 一年生で必修の科目が十教科あります。その科目は一年の時に取れなくても、積み残しして二年生で取れる仕組みになっています。でも二年生でも取れなかったら留年なんです。私は1つだけ落としてしまって、二年生のテストが運命の境目でした。 ですから、真面目に勉強して、当日の朝も早起きして勉強してテストに臨んでいたんです。これは間違いなく単位は取れるだろうって確信していました。
 当日、教室どこだっけって思い確認したら・・・ テストの時間割、 「2限」だと思っていたのが『1限』だったんですよ!!!!!一気に血の気が引いていくのが分かって、パニクって、部屋とリビングを意味もなく何往復もしましたよ。(笑)自分、ほんとアホなんです。

経緯が凄いですね!(笑)留年中の活動をお聞かせ下さい

 その時、せっかくの1年間だからいろいろやってみようと思いましたね。  最初は自分探しの旅で、東京から沖縄までヒッチハイクの旅をしました。スタートは東名の港北PAの出口でホワイトボードに行き先を書いて乗せてくれる車を持ちました。
  はじめての経験でしたし、一人でやっていたので、膝はガクブルでしたよ。(笑)結局、合計で9日くらいで沖縄に無事到着しました。  夏休みは青森までヒッチハイクして、ねぶた祭りを見たりもしました。後は友達とフリーマーケットのサークルを作りました。明治公園と代々木公園で友達の古着などを売って、そのお金を寄付していました。
 その頃から社会起業家とか、ソーシャルビジネスをたまたま知り、興味を持ち始めました。

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