2010.09.28

ソーシャルベストアンサーで、Googleを抜く

株式会社オウケイウェイブ / 兼元 謙任

oukei

株式会社オウケイウェイブ 兼元 謙任

兼元 謙任 
株式会社オウケイウェイヴ株式会社GK京都、など
1999年 OKWave 創業
2000年 OKWave 現職就任
2006年 セントレックス 上場

 

「自殺も考えた少年時代」

どのような少年時代でしたか?

 小5以降、壮絶ないじめを受けます。私の国籍(在日韓国人三世※現在は帰化)が原因で、毎日いじめにあっていました。学校に行くと、上級生に取り囲まれて泥や便器に顔を押しつけられたり、集団で暴行されたり、辛い日々を送りました。トイレの柱に縛り付けられて一日放置された事は、今でも夢に出てきます。いじめを先生に訴えても、「しようがない」というようなことしか言わない。なぜ、教師という立場の人がそんなことしか言えないのかと絶望感にとらわれました。
 そんな生活を過ごしていたので、当時は、周りの全員が私の事を殺しにくると思っていましたし、自分以外は敵だと理解していました。実際いじめに参加をしていたのは数人だけだったと思いますけどね。一種の精神病のようなものでした。本当に理不尽な日々を過ごしていて、毎日泣いていましたね。
 今思えばこのいじめの時期を、歯をくいしばって乗り越えてきた事が精神的な強さに繋がったのだと思います。しかし、当時は真剣に自殺を考えていました。

さらに身体も弱かったとお伺いしましたが

 そうですね。元々身体が丈夫ではなかったのですが、いじめを受ける日々の中で、徐々に自律神経に異常をきたすようになりました。医師からは、『ギレン・バレー症候群』という病名を告げられます。筋肉の運動神経に障害が起こる事によって、筋肉が弛緩するという病気です。首がまっすぐ据わらず、車椅子に据え付けた棒からヒモで首を吊って支えていました。リハビリをするまでは、車椅子を動かす程度の筋力しかありませんでした。

中学・高校時代のお話を教えてください

 基本的には入退院やリハビリの繰り返しですね。高校時代は大分良くなっていましたが、やっぱり学校には行きたくなかったので、喫茶店で一日中読書をしていることもありました。
 部活動は勧められて、テニス部に入りましたが1日で体育会系は無理だと悟ってすぐに退部し、文芸部と美術部に所属していました。

何故愛知県立芸術大学に進学されたのですか?

 『ギラン・バレー症候群』を患ったこともあり、最初は医者になりたくて必死に勉強をしていました。成績も上位をキープしていたのですが、当時の彼女と別れた事が響き、成績が急降下してしまったのです。別れた理由なのですが、国籍の事で彼女の両親から「別れなさい」と言われたのです。私としては、ようやく癒え始めていた傷口に、塩を塗られたような心情でした。この出来事が切っ掛けで全く勉強に手がつかなくなってしまいました。
 その後、美術部の経験もあった事から、芸大に進むことにしました。大学時代は課題制作などに追われていましたが、とても楽しかったですね。デザイングループを結成したり、恋に落ちたり・・・。ちなみに、そこで今の奥さんに出会いました。

就職活動について教えて下さい

 形になって触れるものが好きだったので、プロダクトデザインの会社を希望していました。少年時代も入退院を繰り返す中で、唯一の趣味がプラモデルを作る事だったくらいですから、「モノ」のデザインに対して強い興味がありました。
 そこで、キッコーマンの醤油差しをデザインしたGKという会社に入社しました。GKという会社は榮久庵さんという方がやっている会社で、捨てずに命や物に力を感じて貰えるデザインを信条に、今でいうエコロジーを意識している、素晴らしい会社です。

その後、名古屋の建設塗料会社に転職したのは何故ですか?

 形になって触れるものが好きだったので、プロダクトデザインの会社を希望していました。少年時代も入退院を繰り返す中で、唯一の趣味がプラモデルを作る事だったくらいですから、「モノ」のデザインに対して強い興味がありました。
 そこで、キッコーマンの醤油差しをデザインしたGKという会社に入社しました。GKという会社は榮久庵さんという方がやっている会社で、捨てずに命や物に力を感じて貰えるデザインを信条に、今でいうエコロジーを意識している、素晴らしい会社です。

そこでも苦労されたとお聞きしましたが、どのようなものでしたか?

 仕事を始めて何日か経ってから、「遊んでいていいよな」と言われた事は今でも忘れません。工場の方達は暑い中働いているわけですが、私はクーラーがきいた部屋でデザインをしていたんです。どうやら、楽な仕事をしていると思われたのですね。
 パソコンが熱でダウンしない為に冷房を効かせていたのですが、中々理解してもらえませんでした。製品のデザインには、作業員との交渉が必要不可欠なのですが、よく無視され、不遇な時代を過ごしましたね。ただ、昔からの免疫があったので、冷静に対処していました。

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