2010.10.26

常日頃から準備

株式会社井之上パブリックリレーションズ代表取締役社長 / 井之上喬

井上

株式会社井之上パブリックリレーションズ代表取締役社長 井之上喬

今回のインタビューは、株式会社井之上パブリックリレーションズ代表取締役社長・CEOの井之上喬氏です。
日本で初めてPR(パブリック・リレーションズ)で博士号を取り、会社設立後はインテルやアップルなどのPRコンサルタントとして、広範なコンサルテーション業務を手掛けつつ、日米半導体摩擦の解消に貢献されるなど、まさに日本のPR業界の権威である方です。
現在は早稲田大学で教鞭を執っている井之上社長。そんな井之上社長の起業ストーリーを取材してきました!

 

 

「PR(パブリック・リレーションズ)とは、関係構築活動」

お生まれは満州だとお聞きしましたが。


 はい、満州の大連市です。
 大連市は満州最大の港町で父はそこで副市長をやっていました。その父は元々鹿児島(薩摩)出身で、母親は愛媛県の弓削島出身で当時勢力を誇っていた海賊の血が流れていました。だから当時から自分は何か人とは違うものがあるのかなぁという思いがありました。最近でも良く「大陸的な方ですね」と言われています。
 また幼少の頃からスポーツが好きで東京の中学では野球、高校では水泳に打ち込んでいました。常に目標を持って人生を生きていた気がするのでそれは重要だったと感じます。 

学生時代はどのようなご活動を?


 高校時代は水泳でオリンピックに出たくて、レベルアップの為に高校2年の頃早稲田大学水泳部の合宿に通いましたね。そこで当時一時的に流行っていた米国式クロールに泳法を変えられたんです。それが全く合わなくてガタガタになってしまい高校最後のインターハイも関東大会に出場しましたが振るわずに終わりました。
 大学進学後は趣味の音楽に打ち込み、当時流行っていたハワイアンバンドに所属しました。その中の先輩が留学する事になり、私も2年時から米国留学の準備を始めていたんです。そんなときに思いがけずそのバンドのレギュラーに選ばれ迷わず留学よりそちらを選びました。それから毎年ひと夏35箇所冬で10箇所ぐらい全国を回りましたね。 

就職活動はどのようになさっていたのでしょうか?


 現在就職氷河期と言われていますが昔はいまよりも就職難の時代で、大学の成績が優秀でないと大学側が企業に推薦してくれないんです。そして学校推薦されないと就職試験すら受ける事ができませんでした。
 私は音楽に打ち込んでいた為に成績は悪く大半の大企業を受ける事ができなかったんですが、幸運にも日本楽器(現ヤマハ)に音楽活動の縁で社長推薦を受けて入社しました。しかし入社3ヵ月半経った頃オーバーワークで体を壊してしまい、それを理由に退社して現在の井之上パブリックリレーションズを設立しました。

 

退社後すぐに設立されたのですか?


 1968年の7月に退社後、最初の1年半は個人で行っておりました。企業のPRコンサルティングの他に音楽やイベントの企画、プロデュースにも多く携わりましたね。面白いことに最初の顧客はヤマハでした。1970年に会社を設立しましたが、偶然にもその設立日がアメリカの独立記念日でした。 

貴社はPR会社という事ですが、井之上社長はいつ頃からPR業に関心を持たれたのでしょうか?


 私の遠縁に真珠湾攻撃の参謀長がおり「参謀って何だ?」と思い聞いてみたところ「戦略を考える事だよ」という答えが返ってきました。そしてPRの仕事をやっている内に「PRとは戦略を立案し実行させる事」だとわかったんですよ。それで私がやるべき仕事はこれだ!と感じ打ち込むようになりました。 

当時日本は成長期で「大企業入社=安定」といった風潮がある中で起業に踏み切ったのは何故でしょうか?


 当時は本当に色々言われましたね。ただ私の場合学生結婚していたので、他の人より世の中を見る視点が少し違っていたのかもしれません。とにかく無我夢中だったのでリスク等を考えず何でもやりました。学生時代にバンドでプレイングマネージャーをやっていたので人脈作りやコミュニケーション能力には自信もありました。弊社はリレーションシップマネジメント、すなわち「関係構築活動」を行っていますからね。

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