2010.10.02

経営とは未来をつくること

ワタミ株式会社 / 渡邉 美樹

ワタミ

ワタミ株式会社 渡邉 美樹

1984年 有限会社渡美商事 創業 「つぼ八」FC点オーナーとして起業
1986年 株式会社ワタミを設立
1987年 ワタミフードサービス株式会社に社名変更
1992年 居食屋「和民」開発
1996年 店頭公開
2000年 東証一部上場

「外食」「介護」「高齢者向け宅配」「農業」「環境」など「人」が差別化となる労働集約型事業の展開。 1次産業の農業から2次産業の加工、3次産業の外食・介護等サービス事業を展開し、独自の事業モデルを構築。

【個人活動】
「学校法人 郁文館夢学園」(中学校・高等学校・グローバル高等学校)理事長
医療法人 盈進会(えいしんかい) 岸和田盈進会病院」理事長
「日本経団連」理事
公益財団法人「School Aid Japan(スクール・エイド・ジャパン)」代表理事
NPO法人「みんなの夢をかなえる会」理事長

 

「北半球一周旅行で、外食の素晴らしさに目覚める」

渡邉会長の生い立ちについて教えて下さい

 恵まれた家庭に育ったのですが、母親の死、父親の会社清算、という2つの出来事を機に、裕福な家庭から一転して、非常に貧しくなりました。この悔しさから小学校の卒業アルバムに「おとなになったら社長になります」と書きました。父を超える強い社長になりたかったのです。

渡邉会長の学生時代のお話を教えて下さい

 とにかく社長になる事は決めていたので、「じゃあ何の社長をやるか」この答えを見つける為に明治大学の商学部に入学しました。事業のアイディアを求めて、2年生の時に日本一周、4年生の時に北半球一周の旅行をしました。経営に必要な「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」という4つの経営資源の中で、「ヒト」だけで戦える事業は何だろうと考え、最終的に「外食」か「ソフトウェア開発」に行き着きました。

そこで更に「外食産業」を選択されたのは何故だったのですか?

 北半球を旅行している時に、世界中は差別で溢れているという事に気付いたのです。金持ちと貧乏、肌の色、主義・主張の違い、様々な事で差別をしているんです。「なんだ人間っていうのは嫌な奴ばっかりだな」と、そんな思いを抱きながら旅をしていました。ヨーロッパを周った後、大西洋を渡りましてニューヨークに着きました。ニューヨーク大学のお膝元、グリニッジ・ビレッジという場所があります。そこで、あるお店と出逢います。
 そのお店はライブハウスでした。歌う所があり、踊る所があり、食事をする席があり、後ろには私達みたいなお金のない人間が立ち飲みをするコーナーがある、非常に広いライブハウスでした。そのライブハウスの後ろから、バドワイザー片手にこの景色を眺めている時に、私は「これだ」と思いました。

と言うと、どういう事でしょうか

 世界中を周って人間は差別と偏見の塊だという事を知りました。しかし、そのライブハウスでは本当に美味しい食事があって、素敵なサービスがあり、良い音楽が流れている。そこでは様々な国の人が宗教・人種の壁を超えて、肩を組み歌い、乾杯をする。1つの、素敵な地球があったんです。そこにいる人達の笑顔に感動して、涙を流しながら、「ああ、こんな場面が提供できれば良いな」と心から思いました。「僕は外食産業の社長になる。一人でも多くの人の思い出に関わって、笑顔を作りたい。」そう日記に綴りました。

起業の準備段階で、どんな事をされていたのですか?

 「24歳の4月1日社長になる」と夢に日付を入れました。旅行から帰国した時は、22歳の3月30日。目標達成まであと2年。まだ何もない状態でした。その差をどうやって埋めるかという事で大学卒業後、まず経理会社に入社しました。半年間、死ぬほど勉強しまして、これが後々本当に役に立ちました。経営というのは技術だと思っています。その技術の根幹を成すのは知識なんです。財務とか経理の知識がなければ何もないのと一緒で、目隠しをしながら走って行くようなもの。この半年間はともかく、経理を死ぬほど勉強しました。結果漫画を読むように決算書が読めるようになりました。

その次は資本金の準備ですね

 そうですね。当時から私はお金には「色」があると思っていました。資本金は自分の汗と引き換えに得ようと。だから、肉体労働をしようと決めていました。「どんな仕事をしようか」そんな時に、たまたま書店で「佐川急便残酷物語」という本を見つけました。そこに書かれていたのは初任給が43万円という高額を得る事ができる代わりに、過酷な労働を強いられる、というもの。「これがピッタリだ!ここで1年間頑張って300万円の資本金を貯めよう!」そう決意し、佐川急便に入社します。

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